2012年8月15日水曜日

終戦記念日

今日は67回目の終戦記念日だ、今までこの日が雨天だった記憶が無い。終戦のあの日は夏雲が空に沸いて滋賀県蒲生郡南比都佐村の疎開先では米軍機が朝から乱舞しお昼に天皇陛下のラジオ放送があるから外へ出ずに静かにしていろと父から言われた、夏雲が純白だったのとロッキードP38が低空で見られた記憶がある。日本電報通信社(現在の電通)に勤務していた父は職務上知り得た昼の放送の内容による混乱を心配したのだろう名古屋から疎開先へ来ていた、ラジオのある農家に集まり殆ど雑音で聞こえない放送が終わり家に帰ると父から戦争に負けたから今夜から空襲が無くなるし戦争も終わると聞かされた。今夜から空襲が無くなる事がものすごく嬉しかった、名古屋東山では爆撃の地響きや爆撃され破壊されたり燃えたり、高射砲の破片の落下を体験し疎開先でも周囲の都市が空襲される音や響きを聞いて震えていた6歳の幼児、深夜起こされて急ぎ着替えて防空壕へ避難した眠さと食べ物の無いひもじさ・・・・。

午前中都心へ出てみたら全く過去の事は関係ない人々が楽しそうに歩いて飲み食いしていた。この67年国民が島国の中で自分たちの利益しか考えて来なかった役人と総評、農協、与野党の世襲政治家などに代表される戦後政治のツケが出て周辺国からバカにされなめられている国に、経済的にはギリシャになりかねないのを無視し税金、年金を考えない三等国民に自ら選んでなりさがった。67年以前は面と向かい三等国民と侮蔑した国々から仕返しを受ける事になったが守る兵もいない、来年の今日はどうなっているだろう。

戦いを誰記憶する銀座街  枯沼

3 件のコメント:

三四郎 さんのコメント...

その頃、つまり制空権が100%米国に握られてしまっていた頃、海岸で遊んでいた小学校二年生の少年たちに向かって艦載機グラマンが低空飛行で機銃掃射をしてきました。うまい具合に的を外したのは操縦桿を握っていた米兵が遊びでやったことでしょうが、僕らは死ぬかもしれないと肝をつぶしてしまいました。そのような断片的な記憶は、衣食住の全てにわたってマダラボケの僕にも鮮明に残っています。苦しかったのはむしろ戦後の食糧難でした。たけのこ生活でしのげたのは僅かの期間でしたから。大陸から叔父が復員してきたとき、乾パンをどっさり持って帰ってきました。みんな大歓声を挙げました。

治 さんのコメント...

1950年頃だと思うがわれわれと同級で
夭折したF君のご両親が
リヤカーに真空管アンプを積んできて,
表通りから大兄の住まいに曲がる辻で
お父さんが辻説法をしていたのを覚えている。
お父さんは会計士か税理士で
区会議員の選挙に立候補をしたのでした。
いま思うと希望にあふれた草の根選挙で
あのころの投票率は7,80%あったかな。
いまでは50%を割るのは当たり前だ。
諸悪の象徴の役人,世襲政治家に
次の団体も加えたい。
政治献金で陰で企業に有利に政策を動かす経団連,
水俣病の後始末などひどいものだ。
医師が払底しているのに世襲町医者のために
医学部の増設を認めない医師会。
それらを批判しないマスコミと無関心な国民。

さんのコメント...

三四郎 様

 制海権、制空権を捕られてからはひどいものでしたね、機銃掃射、照明弾、レーダー攪乱の錫箔撒き。二階の屋根すれすれにグラマン社の艦載機が飛んでばりばりやりました。国は強くないと戦争をしなくてもだめですね。

治 様

 そうですね経団連を落としていた、つぶれた金融機関と知り合いになったが考え方が滅茶苦茶ですした。この国をどう導こうとしているのか見えない、つまり気概のある人がいなくなった、世襲で済ましている。